IT日記

Webエンジニアの徒然草

必要なのは才能

ドイツ軍人のゼークトが提唱したと言われる組織論がある。軍組織を運営する上での考察を述べており、その中に、人員を能力の有無とやる気の有無という基準で四つに分類したものが知られている。

この理論によると、やる気も能力もない人間がいちばんタチが悪いかというと、そうではない。最低限、何も考えずに言われたことはこなすからだ。

最も困るのはやる気があるが能力のない人間であり、自発的な取り組みはするものの、能力がないため肝心の成果が伴わない。それどころか、間違ったやり方に周囲を巻き込む迷惑な存在なのである。

企業社会において、現場から管理職に昇進した際にしばしばこのケースが見られる。現場で一プレイヤーとしては成果を出せたかも知れないが、悲しいかな、それはマネージャーとしての成果とは必ずしも一致しない。自分で成果を挙げるのではなく、いかに部下に成果を出させるかが問題なのだ。

マネージャーに本来要求される周囲とのコミュニケーションを怠り、チームとしての仕組み作りもしない。決定的に協調に欠けるのだ。しかし、プレイヤーとしては一定の成果を出しており、自分の仕事に自負もやる気もある。かくして、チーム全体に多大な迷惑をかける無能な上官の出来上がりというわけだ。

戦場では上官の死因のうち、一定数は部下による背後からの狙撃だという。単に理不尽な上官に腹を立てた場合もあろうが、無能な上官に盲目的に従っていては自分たちの命も危ういためであろう。

戦争のない平和な現在の先進国において、背後からの狙撃など現実味のない絵空事でしかない。現実には、耐えられなくなった部下は離職していくのみである。

残念なことに、無能な管理職の例に限らず、こうした迷惑な人間がそのパフォーマンスを改善することはあまりない。努力だけで誰もがプロのスポーツ選手になれるわけではないのだ。一定のセンスがあって初めて、努力が身を結ぶことになる。不得手な分野で不毛な研鑽に励んだところで、才気に富んだ競争相手には決して敵わない。

幸いなのは、才能と言われるものが分野によって多様なことであろう。そして、企業社会においては、その会社や職業集団独自の価値観に共感できるか、適応できるかといった、才能というには語弊のある、個人の性質が進退を左右することも多い。淡水魚は海水では生きられず、遠からず自ら職を辞することになる。

所詮、素質や成果を計る指標に唯一の客観的なものはなく、自分にとって心地よいコミュニティに人は住み着くのである。人は感性の似た同族を好み、判断基準を同じにする者とは意志疎通に労力もかからない。向き不向きを論じる根拠が、客観的な素質の有無なのか主観的な組織文化との相性なのかは時に明確ではなく、おそらく重要でもない。

結局は適材適所であり、不適な職場で時間を無駄にするくらいであれば、新天地を望んだ方が個人の生き方としては幸福なのであろう。